spring has come

27歳の日々について

28.11月4日の日記:終末旅行

  週末の旅行は酷い雨だった。

ニュースをにぎわせていた台風は家を出る前に温帯低気圧に変わったものの、嵐は嵐のままのようだった。昼頃に伊集院さんが家へ迎えに来てくれた際は小雨程度だった雨が、SAで一休みする頃にはバケツをひっくり返したような本降りになった。伊集院さんの車はしっかりと重く大きいのに、大型トラックが隣を勢いよく走り抜けると、高速道路上の水たまりはざばりと大きな津波のようになって車を一飲みにし、一瞬前方が全く見えなくなる。

 降りかかる波の中で、今日が命日かも、と何度か思った。そう思ったら恐ろしいのと、一方でなぜか愉快になってきて、私は車の中でたくさん歌を歌った。伊集院さんは一種奇妙な興奮状態で様子のおかしくなっている私の隣で、大人らしく笑っているだけだった。

 

 この日の旅先は三重県津市だった。

 三重には幾度か行ったことがあるけれど、津という町は初めて。田舎っぽさと、田舎の観光地っぽさと、田舎の都心っぽさの全部が合わさったみたいなところだった。臨海都市であるせいか、漁師町みたいな空気があってすこし寂しい感じ。レトロな感じとか、ノスタルジックな感じというほうが近いのかも。到着したのは夕方で、特に観光をしたわけではないから、きちんと歩けばまた違うのかもしれない。

 その旅行は伊集院さんが古いお知り合いのお祝いで出向かれるのに、暇を持て余している私にたまたまお鉢が回ってきたようなものだった。連れて行っていただいた大門の品よい小料理屋さんには聞いたことのない日本酒がたくさんあり、伊集院さんとその古い知り合いの方とが話しこむ隣で私はお酒ばかりたくさん飲んだ。水のように飲みやすいものも酒気の強いものもあり、その水のようなお酒を飲みながら、私は過去のことなんかを考えた。

 

 翌日は海を見た。

 海を見たい?と伊集院さんが言うので、見たい、と答えると、津なぎさまち、というところに車を寄せてくれた(恥ずかしながらこの時まで私は津市が臨海都市であると知らなかった)。

 中部国際空港への船を出している港だそうで、車を降りると白いガードレールの数メートル下に濃い青色の海辺が広がっている。車道に連なる歩道から、数メートル下の海辺へ小さな面積で一息に下らせるような急こう配の階段が砂浜に続いていた。

 浜辺は風が強くて、でも潮の匂いがほとんどしなかった。息を思い切り吸い込んでも水の匂いがするだけだ。なんの匂いもないのねえ、と私が言うと、伊集院さんは本当だねえ、と言った。静かな人なのだ。

 私は片手にお酒の缶を持っていて、海風の中ではそれがひどく冷たく感じられた。砂浜は濃い灰色で、昨日の嵐のために湿って柔らかく、ピンヒールを履いた私の足は歩くたび砂に取られて沈むために、下を見ながら歩かねばならなかった。砂の中に白いかけらがいくつもあって、かがんで確かめると美しい形のままの貝殻だった。晩秋の今は浜まで降りる人が少なくて、踏まれずに済んでいるのかもしれない。

 浜辺には釣りに来たのであろう釣り竿とクーラーボックスを抱えた家族と、ラバースーツを着て海の中を歩いて行く人、それから犬を連れて散歩している人がいた。広々とした海を背景にしているためなのか、みんな奇妙に孤独そうに見えて、私は昨日思い出していた過去のことを再び考えた。

 

 およそすべての人間に、折に着け心引き戻される過去というものがある、と思う。私にとってももちろんある。その都度決心をしたり諦めたりして何度も何度も思い出の箱にしまいなおしているはずなのに、それは不意に手を伸ばしては私の髪を引っ張る。

 私の場合、その過去はかつての恋人の形をしている。その人は私がお酒を飲んでいるのを見るのが好きだった。いつも水のような柔らかい日本酒を買ってきてくれた。一度夜の川べりを二人で歩いた。海へ行こうねと約束していたけれど、それは本当にはならなかった。

 人は思い出と共に生きていくもの、という。けれど髪を引かれては振り返り、振り返ったその先にあまりにも青い海があったりすると、それはときどきすごくむずかしいのだった。